私にとっての幸福な死、不幸な死とは
どんもっす。
最近とある資産家が奥さんに殺害されたという話を聞いて、陰鬱な気持ちになっております。
資産家の年齢は70代後半、奥さんは20代のモデル、良くある話です。
奥さんは最初から資産目当てで、資産家の方は若い女性の体目当てで…ってことでしょうけど、人間の欲って尽きないんだなぁと本当に関心致します。
で、思ったのが資産家の方は死ぬ間際幸福だったのかということ。
70代で20代の奥さんに殺害されて、不幸だったのか…。
70代で20代のお嫁さんを迎えることができて、幸運だったのか…。
今となっては誰にも分りません。
死というものは遅かれ早かれ、誰にでも平等に訪れます。
そして、自分にそれがいつ訪れるのかを予期できる人もいるでしょうが、突然やってきて予期せず死ぬ人もいるでしょう。
私にとっての不幸な死とはまさに予期せぬ死であり、特に人の手によってもたらされるのが最大の不幸であると思っています。
一概に、人の手によってもたらされる死と言っても、多くのシチュエーションが存在します。
1.普通に殺される場合
一般に人の手によって殺されるというと、このシチュエーションを想像する方が多いでしょう。
他人であれ身内であれ、鈍器で殴られたり、毒を盛られたり、崖から突き落とされたり…
冒頭の資産家の話もここに当てはまります。
そしてそれが他人であれ身内であれ、こんなに不幸なことはありません。
他人から殺される場合、たまたま目をつけられた、些細な因縁が大事に発展したなど、いずれの場合も運が悪かった場合です。
身内から殺される場合、長年にわたってつもりにつもった鬱憤がほとんどでしょう。
どちらにしろ、この死に方は最も不幸な死に方の一つではないかと。
2.交通事故等、突発的な事故で殺される場合
これも人の手によってもたらされる死です。
これはもう避けようがありません。
今現在のように、高齢者の多くが免許を所持している状況だとなおさらです。
学生たちの登下校に突っ込んでいく自動車の事件を聞くたびに胸を痛めずにはいられません。
子どもたちは、今日自分たちが死ぬなんて予想もしなかったでしょう。
親御さんたちも、朝見送ったのが最後になるなんて予想できるはずがありません。
日本では交通事故でお亡くなりになる人の数は年間大体5000人前後(24時間以内に死亡した件数のみ)。
世界だと、大体125万人ほど年間でなくなっているらしいです。
もの凄い数ですね…。
自動運転そのほかの技術の進展により、一刻も早く交通事故が亡くなる社会を願ってやみません。
3.末期症状において、終末医療で殺される場合
これは、日本においてはまだまだ一般的ではない(というかそもそも許されているのかどうかすら知りません)が、諸外国ではある程度許されている行為です。
何らか体に異常があって意識が戻らず、助かる見込み、回復する見込みがないので、生命維持装置を切るっていう奴です。
これも、かなり精神的に来ます。
死ぬ方ではなく、生命維持装置その他の切断をするという決断を下す方々の精神に。
私は、俗にいう植物人間みたいになって、回復の見込みがないのに生きたいとは思いません。
遠慮なく生命維持装置切ってほしいと願いますが、その想いが届かないのは何より辛いですね。
自分がそういう状態になったとき、最終判断を下すであろう方々の顔ぶれを思い浮かべると、みな決断できないだろうなぁと思っちゃいます。
決断したら決断したで、その方の心に大きな影を落とすことになりそうですし…。
と私にとっての不幸な死に方を考えてみました。
上記の死に方に比べれば他の死に方は、私にとっては大体幸福な死であると言えます。
私は登山するのですが、例えば遭難して死ぬことでさえ、上記に比べれば幸福な死に方です。
やりたいことやって、その結果死ぬのであれば大満足です。
遭難であれば、ある程度死期は予測できそうですし。
家族友人には、「山で死んでも本望だから」と伝えてありますし。
あ、もちろん、もの凄く苦しんだり、もの凄く痛みを伴って死ぬのは、私にとって不幸な死ですよ。
これは誰にとっても不幸な死なので、除外してます。
まさか、死ぬ間際にもの凄く苦しんで死にたい!なんて人はいないでしょうから。
皆さんにとって、幸福な死、不幸な死とはどんなものですか?